三木首相が特別国会の召集についてその段どりを中々決めないので噂はさらに広がった。三木首相の脱党論は月並みだが、松野頼三の保革連立構想もその一つだった。最も奇妙なのは小坂善太郎、徳三郎兄弟の「総裁選挙運動」であった。これは田中六助が大平に話し、われわれの間では大騒ぎとなった問題だ。真偽のほどは未だによく判らない。大平は鈴木に連絡して、ついには挙党協の組織の点検にまで発展する。
12月17日、私が大蔵省に大平を訪ねると
「小坂兄弟が選挙区の各代議士に無記名投票で総裁を選ぼう、という檄をとばしたらしい。『同調者は選挙区にとじこもって上京するな』という工作を始めている。二百票は集める、と豪語している」
と話した。
「おれは長兄の葬儀で故郷に帰ってくる。東京を留守にするから善幸と相談して組織の点検をしてくれ、頼む」
と大まじめで話した。大平に頼まれると弱い。私は鈴木に頼み、園田や二階堂進と連絡してもらった。もっとも田中六助が私の先に鈴木に会ってこの趣旨を話していたはずだ。
小坂の件はついに表面に出ずに終わった。

小坂兄弟は豊富な資金を動員して三木、田中、中曽根派の中の「根強い福田批判票を集めようとしたのだ」という話を後で聞いた。このことはそれ以後、顕著となった若手ニューリーダーたちの世代交代論のはしりでもあったが、派閥の締めつけがこれを許さなかったのではないか。
12月17日、三木首相が退陣の意思を表明してからは福田政権への動きは現実味を帯びてきた。「両院議員総会で福田は後継総裁に選ばれる。三木は遺言として総裁公選規定を改正し、予備選挙を導入する」という観測が高まる。
12月20日になると福田内閣の人事構想がアングラ放送を通じて盛んに流れ始めた。こうなると両院議員総会で福田の対抗馬として立つ若手など雲散霧消してしまう。「勝ち馬に乗らねば遅れてしまう」という機運が一つの勢いとなり「無記名投票 (小坂兄弟の一件) などの動き」を完全に一掃するからだ。
福田周辺からの人事構想は いつしかはっきりした新聞記事の形をとり、大平幹事長、江崎総務会長、河本政調会長の党三役を内定した。河本の三役入りで三木派は急速に協調的となり、分裂回避へと動き出す。

23日両院議員総会、24日首班指名の段どりが決定すると、入閣者の顔ぶれまでが次々に新聞紙上できまっていった。西村英一の副総理入閣、鈴木善幸、園田直ら挙党協幹部の入閣も確実となった。安倍晋太郎の議院運営委員長も内定してしまう。
大平にきいてみると宏池会からの入閣者は小川平二、村山達雄、田沢吉郎の三名だった。大平は鈴木に入閣を遠慮してもらうつもりでいた。ところがこれが崩れてゆくのだ。
私は大平に質したら
「挙党協が強くなっている。西村を入閣させないと田中派は福田首班に投票しないといい出した」
と真相を語った。私は慨嘆して
「このままだと何のための大福提携か判らない。党近代化などはとても不可能だ」
といった。大平も
「そうだ、福田の退却はおれの退却だ」
といい「おれもだめだな、と家内にきのう話した」と述懐した。
この時の大平の話で「鈴木にきのう入閣はやめよ、というと『どうして私が入閣したらいけないのですか』と鈴木が大平に問い返したこと、布施健検事総長を法相にしようと交渉したら『田中を逮捕した自分は入閣できない』と断った」などの事実が判った。

三木首相が公式に退陣を表明したのは12月17日であった。8時40分に南平台の私邸を出て 9時過ぎには永田町の首相官邸に入った。車の中で秘書官にも口をきかずにいた三木は、官邸の玄関で記者団に取り巻かれた時も その不機嫌そうな表情を変えなかった。
記者団は 二、三公式の質問をしたあと無遠慮な言葉を放った。
「福田さんにしてやられた……という心境ですか？」
「そんなことはないよ」
変わりない硬い面を記者たちに向けながら、低いがはっきりした声でそう答えた。
「それでは福田さんと今後 協力していけますか？」
その質問には三木は答えなかった。
ー後の事は後の事だ……。
三木は総理応接室に入った。すでに内田幹事長、松野総務会長、桜内政調会長、井出官房長官が待ち受けていた。その席で三木は
「皆さん方 執行部の手で党内調整のめどがつき次第、正式に総裁を辞任する……」
と退陣の意思を明らかにした。彼の党改革案を内田に手渡した。その要旨は
「総選挙での自民党の敗北に対する責任は 総理総裁である私が負う。自民党は党改革と政権担当の責任を果たすため 党再生の道を自ら作り出す他はない。これについて私の所信と決意を述べる。

一、自民党は “進歩的国民政党” を標榜して発足した立党の原点から再出発すべきである。党内のいわゆる “保守本流” といった意識は “長老政治” と結びついていて、党の動脈硬化をきたし国民から遊離させている。この党体質の改善なしに再生はあり得ない。
一、自民党は金権体質と派閥抗争により国民の信頼を失った。ロッキード事件は児玉ルートの解明が残されているが、真相の究明を徹底的に行い、究明が終わった段階でその全容を国民の前に明らかにしなければならない。
一、私は在任中に総裁公選制度の改革を図ったが 残念ながらまだ実現していない。党再生の支柱である公選制度の改革は、来年の1月党大会でぜひ実現しなければならない。諸悪の根源は現行の総裁公選のやり方にあるという考えは 今も変わりない」
これはその後の閣議でも公表されてー 三木退陣は正式に決定をみることとなった。
そのあと党三役の調整の間に中堅、若手たちの公選論も消え、23日の両院議員総会では福田赳夫が総裁、首班候補としての推戴をみた。

それにしても 衆院本会議での首班指名投票は
ー福田赳夫 (自民) 256票、成田知巳 (社会) 122票、竹入義勝 (公明) 55票、春日一幸 (民社) 28票、野坂参三 (共産) 19票、河野洋平 (新自ク) 18票……。
という票数で、福田は過半数の255票を越えること、わずかに一票であった。投票が終わって開票に至る間にも
ーまずくすると過半数を割って決選投票になりはしないか？
そんな懸念の囁きが議場で交わされたほどである。
辛うじて過半数を得て、新任の保利茂議長が
「……福田赳夫君が内閣総理大臣の指名を受けることに決しました」
と宣言して議場に拍手が起こった。福田は議席に立ち上がって、議場のあちこちに二度、三度、頭を下げた。その面には 念願のポストを得たという歓びの笑いが満ちていた。
笑いが福田の面から溢れ出るのは当然としてもー 過半数を越えること一票というのは厳しい情勢であった。

福田票の中には無所属席にいた田中角栄の票も入っていた。田中は「福田赳夫」と書いた票を手に堂々巡りの列の中に加わりながら、運命の転変を噛みしめないわけにはいかなかった。

自らの不屈の意思と力とで総理総裁のポストに登り詰めた時
ー大臣というものは国会議員がそれになろうと それなりの努力をすれば なることができる。だが総理総裁というものは なろうと思って努力してもなれるものではない。大きく運命にかかっている……。
そういう感慨を抱いたものだ。
ー自分自身の退陣も、またロッキード事件でこうなることも、登り詰めた時点では予知し難いことだった。
そこに田中はさらに運命の皮肉を感じた。
ーそれにしても、このさき……
田中はまだ59歳である。さきゆき……運命が自分に対して、また自民党に対して何をもたらすのかを考えた。
ー傍流的な三木が倒れ、ようやく保守本流に戻ったとして、政治情勢は厳しい。
ー52年7月の参議院選挙に もし敗退を喫するようなことがあれば、福田政権もそこで幕をとじよう。後の政権が大平に回るかどうか……。

この堂々巡りの列には三木武夫も加わっていた。アイウエオ順に呼ばれて投票していくので、三木の順序は後の方になる。すでに三木は、自分の政権がこの福田首班指名によって幕をとじることには さしたる感慨はなかった。

だが壇上の投票箱に票を投じながら議場を見やった時
ー過半数すれすれの自民党議席。
ー大幅に少なくなった共産党議席。
ー増大した中間中道の公明、民社党、また新自由クラブ。
その色分けを明確に感じた。
ー福田政権は7月参院選までに党の頽勢を元に返し得るのか？
ーその後また “本流” を自称する人たちは大平政権を目論んでいるが、果たしてそのように進んでいくかどうか？
ー進んだとしても、それではさらに自民党は低落していくのではないか？
投票が終わって壇をおり、議場後方の自分の席に足を運びながら、そんな思念に囚われていた。
いうまでもなく議長席、演壇に近い前方は一年生、二年生と当選回数の少ない議員たちの席である。当選が重なっていくにつれて議席は後方に移る。三木の議席は当然 後方である。
前から後ろへー 足を運ぶに従って若い議員が減って高齢の幹部になっていく。
ーこの前方の若い諸君が急速に後方議席にくる……そうならなければ保守勢力の頽勢挽回は期し難いのではあるまいか。
そう三木は考えた。
ーそうなれば その新しい流れが本流となる。
総理の席を去って、三木その人は第三者的な評論家に返ったようだった。

12月24日、三木内閣は総辞職し 福田は首班に指名された。投票総数は508票、福田への投票数は256票で過半数 (255票) を上回ること一票であった。
組閣は順調に進んだ。後で大平の解明によると、園田、鈴木らは団結し、保利を担ぎ福田に「挙党協人事」をのませたという。
園田は官房長官、鈴木は農相であった。宏池会からは鈴木の外に小川平二、田沢吉郎、藤田正明 (参院) の三名が入閣した。西村は副総理格としての入閣であった。福田内閣はこうして下村のいう景気対策に取り組むことになる。
この日の夜、金子先生が岡山の御本部に参拝すると聞いたので、私は「福田内閣の成立、大平幹事長の実現」につきお礼の御届けをした。
翌日の夜、再び荒川に参拝すると、金子先生は信心の上からみた福田内閣の実現を次のように解明してくれた。
「四代さま (金光鑑太郎師) にお届けしました。御機嫌は悪くありませんでした。だが私としては腑に落ちないことがありました」
「あなたのことを述べると四代さまはにこにこして、一ぺん御神米を出した後『これは伊藤さんの願いだな』といって改めて別の御神米を下げて下さいました。

これはあなたの働きを天地が受けたということです。だからあなたが責任をもたねばなりません。天地はまだ、福田総理、大平幹事長を受けてはいない、ということです。信仰的にいえばそうなります」
「これからあなたの働きは大変厄介だと思いますよ。三代さま (金光攝胤師) が働いて下さることは私にははっきり判ります」
「人を助けることに骨折ると人がこれを利用することがあります。だが神様に使ってもらえば、ひっかかっても無駄にはなりません。こういう人は信心の有無に関わらず人に利用される、という身の上 (運命) があるのです」
金子先生の言葉は不思議な言葉だった。「天地はまだ福田総理や大平幹事長を受けてはいない」ということが妙に頭に残ったが、その本当の意味は当時よく判らなかった。このことはやがて二年後に明らかになるのだ。
「人に利用されやすい身の上である」などということは、私はこの場限りですっかり忘れてしまったが、福田内閣の時にも 大平内閣の時にも、やがて現れるであろうことを私は全く知らなかった。