043 日中国交正常化を成し遂げ順風満帆で船出した田中内閣だったが、全盛期は意外に短かった。自民党がよもやの敗北を喫した47年12月の総選挙の後、私は第二次田中内閣の経済企画庁長官に就任した。物価の高騰が始まり、田中首相の「日本列島改造論」には早くもほころびが見え始めていた。組閣の前、外相だった大平正芳君に「企画庁長官に誰かいい人はいないかね」などと相談されたことがあったが、これが打診だったのだろう。田中君は「何とか物価を抑えてくれ」の一点張りだった。 とはいえ年が明けると、就任直前の前年11月に組んだ大型補正予算の影響が一挙に出てきた。私は物価抑制には財政支出を抑えるしかないと思い何とか過剰流動性にブレーキをかけようと試みたが、一度走りだした積極財政路線は容易に止められない。国会の答弁でも持論に傾きかけると政府委員から「あまり強調されると予算補正になってしまいます」というメモが回ってくる有り様だった。 田中君は吉田一派の中ではそれほど重きを置かれていなかったが、保守合同に際し吉田直系の13人が林譲治邸に集まった時には顔を出していて、いつの間に地歩を築いたのかと驚かされたものである。 小坂善太郎2018/09/11 22:001
896 田中角栄(1918-93) 1947年、衆議院議員(28) 1948年、民主党から民主自由党へ合流。山崎首班事件で一回生ながら法務政務次官の椅子を得る(第二次吉田内閣、30)。 1950年、長岡鉄道社長(32) 1954年、自由党副幹事長(36)、『吉田13人衆』の一角を占める。>>43 1955年、衆議院商工委員長(36) 1957年、郵政大臣(39) 1961年、自民党政調会長(43) 1962年、大蔵大臣3期(44) 1965年、自民党幹事長(46) 1968年、自民党都市政策調査会長、自民党幹事長(50) 1971年、通産大臣(53) 1972年、第64代・第65代首相(54) 匿名さん2022/08/11 17:52